ライ王のテラスの深読み。
※ストーリー内容に触れる記述があります。
■作品
ー「ライ王のテラス」@赤坂ACTシアター 3/15追加公演
全長編コンプリ挑戦中のミシマオタク的には観ない訳にはいかず。
会場には女子高生や若い女の子が多く、鈴木亮平さんや吉沢亮くんのファンなのかなーという感じだった。
三島由紀夫独特の形容詞、修辞の多くもセリフに残されていて、私はあの世界観や言葉選びが好きなのだけど、慣れていないと何言っているのか分からなかったのでは。
好きなタレントさんの上裸が見れたらまぁいいのか。
2点ほどストーリーの運びで説明不足?あるいは解釈を入れたくなったところがあるので、深読みしてみようと思う。
ちなみに今の時点で私は原著や解説書を読んでいない。
ゆえに解釈違いの可能性もあるが、あくまで宮本亜門版の舞台を観たいち三島ファンの感想ということで。
1)なぜ若棟梁ケオ・ファは最期、王のもとを離れたのか。
物語の中で一貫して王の味方だったのは第二の后とケオ・ファの2人だけだった。
最終幕、王があんなに破滅的な最期を遂げる時にケオ・ファは何をしていたかというと「満たされた気持ちで新婚旅行に出かけて不在」とのこと。
普通に考えてあんなに慕っていた王がいよいよヤバイという時に、自分たちだけ新婚旅行でハッピーってどういうことや?って違和感が少なからずあったと思う。
物語の中で二項対立構造を作って、
いろんなものを重ね合わせて示唆させる手法は三島の作品でよく見られる。
今回で言うと、若さと衰え・身体と精神・華やかさと潔白さなど。
ケオ・ファが担っていたのは若さだった。
王が幼いころにテラスから夢見た崇高なバイヨン(寺)のイメージを共有できたのはケオ・ファだけで、
王が衰えていく間、バイヨンを作り上げ続けたのは若いケオ・ファだった。
病の中の王にとってのケオ・ファは自分が失いつつある若さの穴埋めであり、だからこそ彼がいなければバイヨンは完成しなかったのではないか。
そしてバイヨンが完成した瞬間に、若い肉体の方の王は「自分こそバイヨンである」と宣言し、王にとっての肉体と若さはバイヨンに預けられた。
ハガレンの等価交換のような感覚。
つまり対立構造上、”若さ”が永遠にバイヨンに受け渡されたその瞬間に
ケオ・ファはその舞台上に居てはいけなかったのではないか。
二項対立上、ケオ・ファは何者にもならなくなってしまうから。
だとすると、ケオ・ファが棟梁になってから何度かの登場シーンで
もう少しその説明を描いても良かったのかな、と思う。
ケオ・ファは最初から最後まで変わらず、闊達な若い青年だった。婚約者への愛の形も変わらなかった。
王の若さを吸い取るように
徐々に自信に満ちていき、
若さゆえのわがままになっていき、
世界がすべて自分のものになったような感覚の瞬間に結婚を手に入れて
ついには王のもとを離れていく、という方が分かりやすかったのかなーと思う。
2)何故、王太后は第二の后の操の潔白を隠し続けていたのか。
王本人も「なぜそれ(第二の后の不貞が嘘だということ)を早く言わなかった!」て怒ってて、ちょっと笑ったけども。
そしてそのセリフに王太后は直接回答しなかった。
たぶん笑かすシーンではなかったので王太后の意図を考えてみる。
三島はずっと「美しく健康な肉体にこそ崇高な精神が宿る」と考えている。
その哲学は他の作品でも一貫していて、私の一番好きな「奔馬」もそういう話だったように思う。
精神だけ美しいなんて偽物である、とまで思っていると思う。
王太后は、衰えゆく王の肉体を見ていられず
精神だけ美しいなんてあり得ない、こんなことなら王の精神も汚してしまおう
と思ったのではないか。
逆説的だが、おそらく健康で美しい肉体の王なら宰相の嘘になんか騙されなかっただろうし、
第二の后に対してあんな施しのような受動的な愛を強要することもなかったはず。
嘘だと分かった瞬間、一瞬王の心はハッピーになったが
疑いの気持ちが生まれている時点でたぶん精神は蝕まれていた。
王太后による、王の精神も衰えさせる作戦は既に成功していた。
逃げ際に打ち明けたのは、王のためではなく王太后自身の弱さと取るのが自然だろうか。
そう考えると、最終幕で王の若い肉体と精神が対話している時点で精神の方が不利だったのか。
肉体の側が勝利したことも説明がつくのではないか。
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なるべくシンプルな舞台セットで重厚感のある世界観を作るやり方は好きなので、
音楽や照明含めて計算されていてとても見応えがあった。
もちろんみなさん素晴らしい演技だったけれど、役どころとしては中村中さん演じる”第一の后”が一番複雑だったのではないかと思う。
「見えるものに嫉妬などせぬ」というセリフがとても印象的だった。
どうにかして原著を手に入れて読みたいなぁ。