In my impression...

死ぬまでに世界の映画全部は無理だな、というブログ

資本主義の世界で、Uncontrollableな公共

※ストーリー内容に触れる記述があります。

■作品
ー「Banksy does New York」@渋谷シネクイント
軍艦島 上陸ツアー@端島

 

映画『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』予告編

 

3/25、ドキュメンタリー映画「Banksy does New York」(2016年3月26日公開)のフライング上映会+トークショーイベントに行ってきた。

私自身は”にわか”Banksyファンなので
映画を見て、彼(?)の作品や活動も初めて知るところが多く、
へー!はー!頭いいな!かっこいいな!と感心しきり。
テンポよく進むのでドキュメンタリーアレルギーでなければ
少しでもアートや表現に興味がある人なら面白く見られると思う。

 

Banksyの作品はとにかく論点が多い。
政治的でもあり、社会的でもあり、そもそもアートなのか?とか、、
その中でも特に印象に残った議論のひとつが
「Grafittiが一掃されたNYのサブウェイは企業の私財になってしまった」
という、ストリートアーティストの嘆き。

”広告”によって、”公共”交通機関の”公共”スペースが金持ちの私財になってしまった。ということだ。
 映画では、そこからマイノリティの表現の場としての5POINTZの価値について触れていく。

 

話は変わって、3月の3連休で長崎県端島の”軍艦島上陸ツアー”に参加した。
007 スカイフォールを見て以来ずっと憧れていた場所だったので、4年越しの念願だった。

軍艦島も論点の多い場所だが、実際に訪れて感じたのは
エネルギー問題どうのとか歴史的価値がどうのとか、そういう左脳的な思考ではなく
それを吹き飛ばすほどの圧倒的な「いのちの力強さ」だった。

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廃墟なのに矛盾だと思う。
決してアイロニーを弄ぶためにそういう表現をしているのではない。
当時の人々の成り上がってやるぞ!という意思をもって人工的に栄えたエネルギーの名残と
それが日々朽ちていく時の流れに抗えない感覚が、あの島にはありありと残っていた。

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1890年(明治23年)、端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎(鍋島孫六郎、旧鍋島藩深堀領主)が三菱社へ10万円で譲渡[21]端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となる。

産業遺産としてだが、世界遺産登録された端島
NYのサブウェイと対照的に、元は三菱の私有地だった金儲けのための小さな島が
放棄されて荒れ果てていくうちに、躍動感ある魅力をもつようになった。

 

話は戻って「Banksy does New York」。
映画を見ると分かるように、BanksyのNYでのプロジェクトは
いくつかの匿名の”落書き”のために
マスメディアが動き、警察が動き、人が足を動かし、大勢が行動していた。
そしてSNSではHot topicとなって、大金も動いた。

ギョーカイ人として敢えて述べても、今のところの”広告”は
頭の良いたくさんの大人が練りに練って
時間も大金もかけて仕掛けても結局博打だ。
それをBanksyはいとも容易そうにやってのけた。
(もちろんBanksyも時間やお金はかけているのかもしれないが)

 

何が人々を動かしたのか考えた時に、
この「いとも容易そう」なところが重要だったのではないかと思う。

映画の中で、Banksyファン・マスコミ・インタビューで人々はこんなように語る。

「人々の反応までBanksyの作品の一部。」
「賞賛も批判もすべてBanksyの手の中で踊らされている。」
「Banksyには新聞社がどんな対応をするかどうかもすべてお見通し。」

つまりBanksyがコントロールする側に立ち、”こちら側”はBanksyに対してアプローチすることが出来ない

これが仮にBanksyがアンケート結果に右往左往して作風をころころ変えていたらどうだろう。
時の政権にお伺いを立てて活動資金をもらっていたらどうだろう。
ユニクロとコラボTシャツ出していたらどうだろう。(ちょっと欲しいけど)

 

軍艦島もそうだった。
もう我々の力ではどうにもならなくなっていた。
貴重だとみんな分かっているけど、現状維持だって危うい。
資本主義の象徴のような場所にも関わらず、”公共”の名のもとに帰ってきた時には既にUncontrollableであった

 

古くからの言い方を借りれば、人智の及ばないものに対しての宗教的な畏怖の念に似ているのかもしれない。
でもきっと そんな妄信的な感覚とは違う。
もうみんないろんな事に気付いていて、知らないふりができなくなっているから
”公共”ですら誰かの持ち物になっていることに疲れているのではないか、と思った。

Banksyによって公共*1は取り返されていくのだろうか。

 

映画『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』公式サイト

週刊金曜日 2016年 3/25号 [雑誌]

週刊金曜日 2016年 3/25号 [雑誌]

 

 

*1:ちなみに、今回はみんなの共有物であるという広義の「公共」と、政府の管理下にあるという狭義の「公共」をごっちゃで使っている。そこ考え始めると公共論に深入りしそうだったので…念のため言うとパブリックアートのpublicとも違う。